3日間眠らず東海道を駆け抜けた三善長衡・三浦胤義・伊賀光季の使者と押松丸

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西暦1,221年6月6日
後鳥羽上皇が、藤原秀康を呼び、以下の人間等に味方に付く様説得する院宣を送る様命じる。
①武田信光
②小笠原長清
③小山朝政
④宇都宮頼綱
⑤長沼宗政
⑥足利義氏
⑦北条時房
⑧三浦義村
院宣の執筆は葉室光親が行った。葉室は以下の主旨の内容を執筆した。
「源実朝亡き後、家人達は只後鳥羽上皇の判断を仰ごうと申していた。北条義時は、征夷大将軍に誰が相応しいか考えた。そして、鎌倉には後任に相応しい者は居ないと言って、藤原頼経を次代征夷大将軍として鎌倉に送らせた。しかし藤原がまだ幼く、何も分からないのを良い事に、北条は野心を持ち、権威を持とうとした。此れを如何して許せようか。よって今後は北条の執権職を停止し、後鳥羽上皇の沙汰を待つべし。もし此の決定を受け入れず、尚反逆を企てるならば、早く其の命を落とすが良い。此の命に従うのならば、褒美を取らそう。此の命を知らしめよ」
後鳥羽上皇は、北条氏と三浦氏の実権争いを予てから把握しており、三浦胤義から「後鳥羽上皇が北条義時に変わって義村殿に関東を治めろと言えば、北条氏を倒してくれるでしょう」という主旨の発言を聞いて、自らが院宣を下せば、御家人達が味方に付ける事が出来ると考えていた。

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