愛息を失った和田義盛は、戦意を失い討ち取られた

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西暦1,213年5月24日
4時、横山時兼が自身の娘婿の波多野盛通等の数十名の親族や横山党を率い、腰越浦(現在の神奈川県鎌倉市)に到着し、和田義盛の軍に加勢する。横山は、此の日に戦いを仕掛けると、義盛と示し合わせていた為、既に合戦が始まっている事に驚いた。義盛は、3,000騎を率いて若宮大路を北上し、大倉御所へ進軍した。先陣の朝比奈義秀は、以下2名等を率い、進軍していた所、鎮西の小物資政等の鎌倉幕府方を破り、大倉御所を目指した。
①土屋義清
②古郡保忠
8時、相模国・伊豆国の以下の御家人等が軍勢を率い、武蔵大路から稲村ヶ崎に到着した。
①曾我氏
②中村氏
③二宮氏
④河村氏
しかし、何方に加勢すれば良いか分からなかった為、源実朝の御教書を求めた。此れを受けて大江広元が、源名義の花押の有る御教書を作成して、使者を稲村ヶ崎に遣わせ、軍勢に示して見せた。相模国・伊豆国の御家人達は、北条義時が源を保護している事を知り、鎌倉幕府軍に付いた。又、千葉成胤も、一族を引き連れて北条に味方した。10時、義盛の軍勢が鎌倉に入り、前日と同じく朝比奈が奮戦した。朝比奈は、土屋・保忠と共に3騎轡を並べて敵陣に突入し、鎌倉幕府軍を攻め立て、追い散らした。そんな中、北条経由で源の下に、鎌倉幕府軍が苦戦を強いられているとの報告が届いた。驚いた源は、政所へ向かった大江を呼び寄せ、願書を書かせ其れに自筆で和歌を2首添えて、戦勝祈願として鶴岡八幡宮寺に奉じた。義盛率いる軍は、次々に新手を繰り出す鎌倉幕府軍に次第に押されていった。そんな中、甘縄から寿福寺(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷)・岩窟不動尊(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)を経由して大倉御所へ向かっていた土屋義清が、鶴岡八幡宮寺の赤橋の周辺で、北から矢を受けて死亡した。18時、和田義直が伊具盛重に討ち取られる。此れにより、義直が所持していた、名刀石動丸が行方不明となった。愛息を失った義盛は悲嘆に暮れ「今は戦う甲斐も無し」と号泣した。戦意を失った義盛は、江戸能範の郎党に襲撃され、討ち取られた。此れを受けて、以下3名は自刃した。
①和田義重
②和田義盛の六男和田義信
③和田義盛の七男和田秀盛
朝比奈は、和田朝盛の長男佐久間家盛と共に、船6隻に500騎を乗せて、海路で所領の安房国へ逃れた。以下4名は波加利荘(現在の山梨県北都留郡・大月市・上野原市・都留市・富士吉田市・南都留郡富士河口湖町)へ敗走した。
①古郡保忠の兄古郡経忠
②古郡保忠
③和田常盛
④横山時兼
土屋は寿福寺に葬られた。土屋は寿福寺の本願主であった。

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